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八潮の沿革

更新日:2018年12月6日

八潮の地勢

 八潮市は埼玉県の東南端に位置し、関東地方のほぼ中央に広がる中川低地上にある。面積は18.02平方キロメートルで、東西が5.23キロメートル、南北が7.45キロメートルの花瓶形をした地形となっている。標高は1~4メートル、東を中川、西を綾瀬川、南を垳川の河川に囲まれ、古くから河川の恩恵と災いを受けてきた。

水辺での生活の始まり<原始・古代>

 八潮市域は、今から6,000年前頃には奥東京湾と呼ばれる遠浅の海だったが、関東平野の隆起や河川が運んできた土砂の堆積などで2,000年前頃までには陸地となり、河川沿いには自然堤防と呼ばれる微高地が形成されていった。市域に人々が住み始めた時期については明らかではないが、現在確認されている遺跡(八條殿社古墳・氷川神社遺跡の五領式土器散布地)などから、遅くとも古墳時代(約1,700年前)頃には人々が生活を営んでいたものと推測される。
 中川や綾瀬川が流れ込み、湿地の広がる市域では、川の流路沿いに形成された自然堤防上に人々が住み、湿地を開墾して生活を行っていたものと考えられる。八條地区では、平安時代の集落が確認され、そこからは千葉や茨城など各地で生産された土器や役人のベルト飾りなどが出土している。すでにこの地域で河川を介した流通が行われていたことや地方官人と何らかの関係があったことなど、このころの人々の暮らしを垣間見ることができる。

中世の八潮地域<鎌倉~戦国時代>

 平安時代末から鎌倉時代にかけての市域は、伊勢神宮の所領である大河戸御厨内八條郷に属し、鎌倉幕府が編纂した『吾妻鑑』によると、武蔵七党の野与党の渋江光衡(八條五郎光平)が地頭に任ぜられていた。八條郷は、利根川(中川)と綾瀬川に挟まれた近世期の八條領の地域と推定され、光衡は八條郷を本拠地として八條氏を名乗っていた。
 延文6年(1361年)の『市場之祭文』の中には、定期市の立つ武蔵国内三十三の市場のひとつに「八十市」(八條)と記されており、舟運を利用した交易の一拠点であったことが推測される。この他、至徳4年(1387年)に香取神社大禰宜兼大宮司大中臣長房がその嫡子に譲り与えた財産目録の中に「つるかそね」「大さかへ(大瀬)」の関での関銭徴収権などの記載があり、物資輸送の船でにぎわう中川筋の様子を伺い知ることができる。
 また、戦乱の世情不安などから、人々は神仏の加護を求め、この時代市域には多くの寺院が建立され、優れた仏教美術や板碑(青石塔婆)などの石造物も遺されている。

新田開発と近世村落の成立<江戸時代>

 江戸時代、八潮市域では20の村(現在の大字に相当)に分かれていたが、その多くは1600年前後に成立したと言い伝えられている。江戸時代に入り、幕府の新田開発政策のもと、八潮市周辺でも綾瀬川の直道化や人工堤防の構築、八條用水や葛西用水の開削がなされ、豊かな耕作地が生まれていった。近世の村は、幕府の支配単位の末端に位置づけられ、年貢や諸役(伝馬役など)を負担した。

水運と交通、産業の発達<江戸時代>

 この時代の物資輸送の中心は、安全かつ大量に物を運ぶことが出来る船を使った水運であり、綾瀬川や中川の川岸には、荷物の積み下ろしをする「河岸」が設けられ、荷物を積んだ川船が行き交い、賑わいを見せていた。また水運は、市域の村々に新たな産業の振興をもたらした。現在も地場産業として行われている染色業は、江戸時代中頃から江戸町人の間に広まった湯上り後の浴衣の柄染めで、水運と密接に結びついて発展した。市域の染色業は、消費地の江戸と木綿生地の集積地岩槻との間に位置することや、稲作が主であるため農閑期の余剰労働力があること、作業に必要な水が豊富なことなどから、農家の副業として盛んになった。
 また、市域を南北に縦貫する道は「下妻街道」「千住往来」と呼ばれてきた。この道がいつ開かれたかは明らかではないが、平安時代末頃には関東と奥州を結ぶ主要道の一つであったとされている。その後この道は、江戸と下妻間を結ぶことから下妻街道と呼ばれ、日光道中の脇往還として、また物資の輸送路として人々に利用され、市内の大原や八條地区では人馬の継立も行われていた。当時の八條村の賑わいについて、文政6年(1823年) 頃ここを訪れた江戸の僧津田大浄は、「辺鄙の一都会というべく、最賑やかなりけり」(『遊歴雑記』) として、酒楼、銭湯、髪結所などが軒を連ねる様を記している。

三村の成立<明治>

 江戸時代の村は、明治維新後も一つの生活共同体として機能しており、明治17年(1884年)に連合戸長役場が設けられると、市内では伊勢野村連合(二丁目村・木曽根村・南川崎村・伊勢野村・大瀬村・古新田・垳村)、上馬場村連合(南後谷村・柳之宮村・西袋村・上馬場村・中馬場村・大原村・大曽根村・浮塚村)、松之木村連合(八條村・鶴ヶ曽根村・立野堀村・伊草村・松之木村・小作田村)が成立した。その後、明治22年(1889年) に近代地方自治制度の一環として市制・町村制が施行され、伊勢野村連合は潮止村になり、上馬場村連合は八幡村、松之木村連合は八條村となる。

地方改良運動の進展<明治・大正>

 明治38年(1905年)から39年(1906年)にかけておこなわれた日露戦争による戦費拡大は、村の財政を大きく圧迫し農村を疲弊させた。このような時期、「地方改良運動」と呼ばれる町村自治の振興を図る運動が内務省主導で推進され、明治44年(1911年)には潮止村が内務省より模範村として選奨された。選奨理由としては、納税の努力と実績、就学の奨励、信用組合の設置や勤倹貯蓄の意欲などが模範事例と認められたことによるものである。
 また、八幡村も県下において優良村と認められ、藤波玉太郎村長は教育の振興、納税の改善、産業の発達等に尽力したという理由で、県の自治功労者として表彰されている。

近代産業の振興<大正・昭和>

 東京近郊で水運の便が良い市域には、煉瓦の原材料である荒木田土に恵まれたいることもあり、煉瓦工場が進出するようになる。大正5年(1916年)に金町製瓦会社(大正8年に日本煉瓦製造株式会社に吸収合併され日本煉瓦製造株式会社潮止工場と改称)が古新田地区に工場を移転したことを皮切りに、大正7年(1918年)には、帝国煉瓦株式会社花畑第二工場が大曽根地区で操業を開始し、さらに昭和15年(1940年)には柳之宮地区に与川煉瓦工場が創立された。しかしながら、日本の近代化に大きく貢献した煉瓦産業も、関東大震災で建築資材としての耐震性が疑問視されたことで徐々に需要が減少し、市域にあった煉瓦工場は1970年代に入ると閉鎖を余儀なくされた。

「八潮」の成立<昭和・平成>

 戦後、地方自治を大きな柱とした新憲法が公布され、政府は、適正な自治体経営に必要な町村規模を計画して、昭和28年(1953年)に町村合併促進法を公布した。八條、潮止、八幡の三村合併協議は、なかなか合意にいたらなかったが、八條村大字立野堀地区(現草加市稲荷)を分離し、新村名は三村の頭文字をとって「八潮」とすることで合意し、昭和31年(1956年)9月28日に八潮村が誕生した。
 誕生までにさまざまな経験をした「八潮」であったが、都心から20キロメートル圏内という地の利もあり、その後の高度経済成長による工場の進出や急激な人口増加により発展を続け、昭和39年(1964年)に町制施行、昭和47年(1972年)には市制を施行した。
 その後首都高速道路の開通や、区画整理事業による都市基盤の整備、平成17年(2005年)のつくばエクスプレスの開業などがあり、まちの様相は大きく変化してきている。

お問い合わせ

教育総務部 文化財保護課 文化財保護係

所在地:〒340-0831 埼玉県八潮市大字南後谷763番地50

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