八条と新方の合戦
(八条・小作田・大曽根)
八条に八条惟茂という武将がおり、八条領をおさめていた。八条領は元荒川をさかいにし、新方領と接しておった。その新方領には、新方頼希という領主が向畑城に住んでおり、八条氏と新方氏がなかたがいをし、戦となった。
文亀4年(1504)正月に八条惟茂は、八条領の武将をひきつれて新方領へせめいった。これを聞いた新方頼希は、さっそく早馬で家来をあつめ、向畑城を出馬した。勝ちいくさで進んでいた八条氏と小林であいたいした。
ここで数日間ほど戦い、地のりをえた新方勢は、八条勢を追いくずした。勝ちにのった新方頼希は、大将みずから八条勢を追った。あまり深追いし、ついに流れ矢にあたり落馬し、命を落した。
大将が落命した新方軍は敗たいをし、向畑城をあけわたした。
八条惟茂は、八条と新方の領をあわせおさめ、向畑城を一族の別府三郎左衛門に守らせた。
新方氏の残党がりをした八条氏は、いきようようと八条へがいせんした。
八条氏にほろぼされた新方頼希の兄に、清浄院の高賢上人がおった。高賢上人は、八条氏を新方領からおいだし、お家の再興を願った。永正17年(1520)10月、新方氏にえんある武者をあつめ、八条氏の家臣で向畑城を守る別府三郎左衛門に夜うちをかけた。ふいのため八条氏はまけいくさとなり、別府三郎左衛門はふたことめもいわず討ち死にした。
八条惟茂は、新方氏のひきょうな夜うちを聞いて怒り、八条のつわものを集めた。先陣に青柳外記と小作田隼人、柿木大膳ら850人、二陣に大相模飛騨守と西脇左近右衛ら500人、本陣八条惟茂は1,000人をひきつれ、別府へ出陣した。永正18年(1521)1月7日に新方領へ総攻撃をかける手はずをととのえ別府で前祝をしやすんだ。
またしても夜半(6日)、ひきょうにも新方勢が夜うちをかけてきた。八条勢の別府や青柳、柿木らの軍は総くずれとなった。八条が叔父大曽根上野介も大相模へ出陣しており、別府のいへんに気がつき、かけつけたが、手のくだしようもなかった。八条の総大将八条惟茂の馬の足が切られ、自害せんと狂うおりながら、小作田隼人が駆つけ、おのれの馬に主をのせて、八条の方へおとしてやる。小作田隼人は、ここより一歩も八条の方へは近付けぬとふん戦したが、根つきてうたれた。敵も味方も小作田隼人の晴なる勇姿をほめたたえた。